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01

冷たい空気が、肌の温度を奪っていく。
風邪をひいて熱を出した時のような火照りが、ゆっくりと冷やされていく感覚。

​​

空は一面、白の一色だった。まるで空に大きな白い天井があるようだと目を凝らせば、空を覆う白い雲が凹凸を見せ、それがゆっくりと流れているのが分かる。
その空に、1本の歩行者用信号が強いコントラストを与えている。横断歩道には私がひとり。信号は赤く灯ってしばらく経つ。遠くで、大きなトラックが走ったのだろうか。エンジン音と車体が揺れたような音が少し、風に流され耳に届いた。だが、目の前の道路では車は一台も走らない。

静かに、ほんの少しの風が吹く。その度に横断歩道脇の花壇で、ひとり取り残されたように咲く小さな花が揺れる。私は信号が青に変わるまで、何度かその花を見下ろした。
よく見る花だが、名前がすぐ出てくるほど、私は花に詳しくはなかった。


白く細長い楕円状の花弁をいくつも持つ花。それを支える茎は細く弱々しい。
あとこの花壇には…言うならば、雑草だろうか。いくつか緑色の何の変哲もない草が、ひょろひょろと乾いた土から突き出ている。生命力が強いとされる雑草すらもこの花壇では元気は無い。これから迎える冬の静けさと、それによる多くの命の終わりを物語るようだった。

この花は、寒い冬に咲く花ではないのだろうな、と思う。

季節に置いて行かれても、未だ咲いている花なのだと感じた。
しばらく誰も手入れをしていない花壇にひっそりと孤独に咲いているその花は、私がこの横断歩道を渡り去った後、また人知れず孤独に枯れ落ちるのだろうか。

風が吹く。
決して木々を揺らすほどの風ではない。しかし、この冷たさは身に染みる。
きっと、この花にとっても同じなのだろう。

視界の端で、信号の色が音もなく変わった。
相変わらずここには私しかいない。車が目の前の道路を走ることもなければ、猫1匹も横切らない。

背には静かな住宅街。ここにはたくさんの人が暮らしていて、信号を待ちながら風に揺れる花を見ていた時も、どこかの家から誰かが生活をする音が微かに聞こえていた。姿は見えないが、ここにはちゃんと人がいるのだなと、ぼんやり考えたりもした。
目の前には横断歩道と歩行者用の信号機。公園に続くタイル敷きの歩道。そしてまだ消えたままの背の高い街路灯が等間隔で並んでいる。

再び花壇へと目線を下す。白い花は何かを訴える事をするわけでもなく、ただ冷たい風によって、弱った雑草と共に小さく揺らされている。

帰りは、この道を通らない。
次にここを通るのはいつになるだろうか。次にこの道を通るその頃には、この花は枯れているのかもしれない。そもそも私は、この花のことを忘れているかもしれない。
まるで、別れのようだ。
こんなことで足を踏み出せないのは。感傷的になるのは。冬の寒さが運んでくる心細さのせいだろうか。

青になった信号が赤に戻るため、そろそろ点滅するだろうかと考え始めた頃。その花から一枚の花弁が落ちた。それは風に舞うこともなく、乾いた土の上に落ちる。
ああ、やはり枯れていくのだな。そう思ったと同時に、私は目線を上げて歩き始めた。信号は点滅を繰り返している。

横断歩道を渡りながら考える。
こうして今歩き始めたのは、どこにきっかけがあったのだろうか、と。
ただ朽ちゆく名も知らない花に思いを馳せて、再び赤色の信号に行手を阻まれるのが馬鹿馬鹿しいと、そう感じたのだろうか?

先程までの、胸の奥を小さく蝕んでくるような感傷を想う。
横断歩道を渡り切った今、振り返ってあの花壇の小さな白い花に、再び目を向けようとは思わなかった。それなのにどういうわけか、心の端が色を失い、脆く欠けていくような。そんな感覚だけが残った。

別れとは、このようなものだった気がする。

 

タイルが敷かれた歩道を歩く。
道路側には街路樹が並んでいて、かすかに葉が風に揺らされている。
小学校や幼稚園が近くにあるからだろうか。歩行者用の道幅が広い気がする。真っすぐ歩けばいいのに、折角だからとその広い歩道をふらふらと歩いてみる。私が立ち止まって落ち葉の色に見惚れるのも、フェンスを覗き込み錆模様を観察するのも、邪魔に思う人は誰もいない。

足元から、私ひとり分の足音がする。
傍で枯葉が転がる音がする。
遠くで電車がレールの上を走る音が聞こえる。
もっと遠くから聞こえるこの音は、風の音だろうか?

誰にも会わない静かな世界と、遠くから聞こえる世界の音。
まるで何かから逃げ切れたような気がして、私は嬉しくてたまらなくなる。

空は相変わらず雲で覆われていて、青空が隙間から見える事もなければ、太陽が透けて見える事もない。


晴れた日のように、私の影は地面には落ちなかった。

 


熱を奪い去る冷たい風が、心地いい。

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